【神奈川銀杏会ニュース】第8号より転載

講師:国際オリンピック委員会(IOC)委員
(財)日本サッカー協会名誉会長
岡 野  俊 一 郎   ・

「ボールを蹴って60年」

(講演概要)
 スポーツの方で多少仕事をしてきましたが、全部アマチュア、ボランティア、無給奉仕です。しかし、協会の職員も100人を超え、協会の年間予算は今年190億円となりました。役員 ・選手の登録料、テレビの放映権、グッズのロイアリティ、スポンサー料等でJOC(日本オリンピック委員会)の約3倍も収入を挙げている。そうなると仕事は増え、人も多くなる。もう片手間ではできないということで、きちんと給料を取り、かつ、良い仕事をしてほしいということで、2002年、ワールドカップを成功に導いた際、協会の寄付行為を変更し、役員も有給とすることができると定めました。私自身は定年制によりワールドカップ直後に協会を辞め、今は名誉会長、アドバイザーという形で仕事をしています。

岡 野 氏 近 影  家業は今年133年の菓子屋で、これがあるので無給でスポーツができました。 実はサッカーより前に3歳から水泳を始め、4歳からはスキーを履いていました。親父は大の野球好きで、軟式野球のチームを持っていました。下町の商人の倅なので、慶応の幼稚舎一普通郎一大学と進学すると思っていましたが、兄弟が全て都立五中という叔母から母親が洗脳され、五中に進学することになりました。  五中の初代校長の伊藤長七は英国のパブリックスクールを理想とし、日本で最初に背広を制服にし、英国教育だから野球はやらない、サッカーをやるということで、五中の校庭で、蹴球−サッカーに出会いました。昭和19年の入学です。戦争中は部がありませんでしたが、終戦になり、部が復活し、近所の友達に誘われてサッカー部に入りました。  昭和25年4月、東大にはなんとかストレートで入り、東大でもサッカー部に人りました。戦後の東大で唯一、大学選手権で優勝しました。決勝戦では早稲田に2対1で勝ちました。2点とも私が入れて得点王になりました。大学3年から日本代表選手になり、昭和28年、大学4年のキャプテンのとき、40日間、ヨーロッパ8か国に遠征しました。ドイツのドルトムントで今日言うところのユニバーシアードが開催され、それに参加し、その後各国を廻りました。この遠征ではサッカーだけでなく、ョーロッパの文化に触れることができ、当時のサッカー協会の幹部、遠征費を工面してくれた東大サッカー部のOBには今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

 東京オリンピックでは今のサッカー協会の会長の川淵が選手、私はコーチでした。次のメキシコでは銅メダル。これは率直に言って、ちょっと反省しています。実は戦時中は柔道・剣道が正課でしたが、私は剣道を得意としていました。サブロク=3尺6寸の標準の竹刀の先を4寸、ノコギリで落としてサブニ=3尺2寸の竹刀を使って胴を得意として区の大会で優勝していました。そのためにメキシコでは銅だったのか。まあ、剣道では金は禁手だからそれくらいでよかったのかなあと今でもそう思っています。  それ以降、日本は低迷期が続きました。いちばんの原因はメキシコでメダルを取ったために、その良いときのやり方が頭の中に染み込み、それにこだわるために、なかなか新しい選手の発掘や切り替えができない。良い成績をさらに伸ばそうというときには、良い成績を上げたことを忘れることです。それを頭の中に残したら次の進歩はありません。

 低迷から抜け出し日本のサッカーを伸ばすために、ワールドカップに出ようとなりました。となるとプロ化です。1992年にJリーグの組織をつくり、1993年からJリ−グの大会が始まりました。三つのポイントでJリーグをつくりました。  まず、プロでやる以上、良い入れ物が必要だ。しかし、.協会には金がない。そこで、よいスタジアムをつくるため、地方自治体の協力を得て土地建物を手当してもらおうと。  次に、組織をつくる以上、資金がいる。女子バレーは我々の一つの参考になりました。繊維産業、電機、流通と、特定の企業にスポーツチームを持ってもらうと、その企業の業績が悪くなるとチームは消えてしまいます。そこで、複数の企業に出資をしてもらってプロクラプを作ろうと。良い例が鹿島アントラーズです。コンビナート40数社が出資し、これだけ多いと好不況の波に影響されません。  また、地域住民に「俺たちのチーム」「私たちのチーム]と言われるように、地域に根付いた組織をつくっていこうと。駐車場の整理は鹿島市のバードウォッチングの皆さんがボランティアとしてやってくださいます。

私がサッカー協会の会長に就任した時の会見で言ったこと一会長の仕事は三つしかない。そのスポーツを普及し、強化し、そのための財源を確保すること。従って長期のスポンサー契約を結んで財源の確保に努めています。  1998年に初めてワールドカップに出場しましたが、必死でした。これまでワールドカップを主催した国でワールドカップに出場したことのない国はありませんでした。韓国は既に6回出場していました。日本はまだワールドカップに出場したことがありませんでした。予選で監督を加茂監督から岡田監督に代えるという荒療治もやりました。韓国と日本がソウルの競技場で対戦した時のことです。スタジアムの日本側は真っ青一日本のサポーターです。反対側は真っ赤一韓国のサポーターでしたが、その真ん中に大段幕で"Let's go to France together" 「日本も一緒にフランスヘ行こうよ。」と。このときは日本が2 対Oで勝ちました。最終的にはイランに延長戦で勝ってフランス大会へ行くことができました。おかげで2002年のワールドカップもスムーズにいきました。国際サッカー連盟のブラッター会長が、大会が終わった時に新聞記者に向って、「今回のワールドカップは "ワールドカップ・オブ・スマイルズ"だ。日本のサポーター、韓国のサポーターは自分の国だけでなく、相手の国をもファインプレーがあれば応援する。街に出ればみんなが素晴らしいホスピタリティーを発揮する」と。直後の連盟総会では、ワールドカップを"微笑みの大会"にしたということで、日本と韓国のサッカー・コミュニティーにフェアープレー・トロフィーが贈呈されました。

 メディア・ヒーローという言葉があります。どうも日本人はブランドが好き、ヒーローが好きです。アジアの大会だとお客が来ません。ョーロッパのチームが来るとお客が人ります。そしてメディアがヒーローをつくります。実力がなくてもヒーローになれます。その一つの典型が残念ながら今年のワールドカップの日本チームでした。  ジーコは素晴らしい選手ですが、ブラジルでは人に教わるということがありません。つまりストリート・サッカーでうまくなり、その中からプロに選ぱれます。ジーコも人に教わったことかありません。一方、日本の選手は第一歩からコーチが付いて教えています。 人から教えられてきた選手を教えられたことのない監督が指導して良いチームができるか。特にジーコは監督の経験がありません。予選は突破しても、ワールドカップ本大会を選手の感覚で乗り切ることはできない。退任記者会見でジーコは敗因を「自分の考えていたサッカーをやれる力を日本の選手が持っていなかった。日本の選手は背が低いから負けた。」と。選手の指導にも問題がありました。監督になったときからわかっていたことを敗因にするのは非常にショックでした。それを克服してどう戦うかが戦術です。

 これからいかにして日本のサッカーを強くしていくか。いろいろ大変です。なぜかと言えば、サッカーの競技人口は15億人で、世界で最も盛んなスポーツです。ほかの競技とは比較できません。なぜ盛んなのかは野球と比べてサッカーはお金がかからないから。  色紙を頼まれることがありますが、書くことは決めています。「サッカーは世界の言葉」と。サッカーを知っていれば、世界中を旅することができます。街を行けば必ず子どもがボールを蹴って遊んでいる。「一緒に蹴らせてよ」とロで言わなくても喜んでやらせてくれます。そして「うまいね」と言って肩を叩いてくれる。私がうまいのは当たり前ですけれども、そういう光景がいくらでも街で見られます。そこで、ワールドカップに行ったら、勝ち負け別にして試合が終わったら街に出なさいと。ドイツならビアホールヘ。必ず隣の人と「お前どこから来た?どこの国の応援だ?どうだ?」と、必ずサッカーの話が出てきて友達になる。スポーツはサッカーに限りませんが、それがスポーツの持っている良さです。つまりスポーツは世界の共通文化です。

 スポーツは良い意味で遊びであり、文化は遊び心から生まれたものです。だから自由があり、世界中がスポーツをユニバーサルカルチャーとして認めている。そういう意味で私は今後もサッカーというスポーツを通じて、オリンピック運動の中で、少しはお役に立つ部分があれば残った時間をそれに注ぎたいなあという気持ちを持っております。  そう思ったいちぱん大きなポイントは53年前のドルトムントヘの遠征です。ローテエルデ("赤い土")スタジオン、3万人入るか入らないか。その今で言うところのユニバーシアード大会は、西ドイツが戦後最初に主催した国際大会でした。それだけに超満員の観客でした。ヨーロッパや南米の習慣では開会式直後はその国のサッカー・チームが試合をやって幕を開けます。その日はほかの競技はしません。閉会式の直前にはサッカーの決勝を行います。開会式直後のサッカーの相手チームは主催者の権限で勝でそうなチームを選びます。そこで選ばれたのが日本です。今日と違い情報化していないので西ドイツも日本のことをあまり知りませんでした。我々は案外強かったのです。大激戦で3対3.試合終了1分前くらい、日本のゴール前で混戦でした。しかし、審判が入っていないのにゴールイン。審判のミスでした。我々はジェントルマンでしたから抗議しませんでしたが、ショックでした。選手17人、試合が終わってシャワーを浴び、選手村の食堂に行きました。食堂からは明るい楽しい雰囲気が伝わってきます。我々が扉を開けて入った瞬間、食堂がシーンとしました。我々はびっくりして立ち止まりました。と、次の瞬間、食堂に居た全ての人が立ち上がり、スタンディングオーベーションが始まりました。スポーツというのはすごいなと思いました。一度も会ったことがない、国も言葉も宗教も生活習慣も違う、その人たちがホームチーム相手に3対4と負けはしたが、大激戦を戦った我々をスタンディングオーベーションで迎えてくれました。スポーツというのは全ての人の心を結びつけ、通じる素晴らしいものだ。将来、多少、時間ができたらサッカーあるいはスポーツの仕事を手伝いたいと思ったのが、実は53年前の熱いドルトムントの夕方でした。

 今回、ドルトムントに行って私がいちぱん先にしたことは、53年前のローテエルデ(赤い土)スタジオンに行くことでした。今回、ワールドカップの会場の一つとなった6万5千人入るヴェストファーレン・スタジオンの後ろにありました。  53年前と全くそのまま。緑の芝生のフィールドはスプリンクラーで虹が描かれていました。メインスタンドは少しヴェストファーレン・スタジオンの関係で削られていましたけれども、バックスタンドは53年前と全く同じで、立ち見席がずっとありました。 フィールドに下りて周りをみたとき、53年の時間が飛びましたね。「53年前ここでやったのだ。そして今、ワールドカッブヘ来た。この53年間、本当に素晴らしい時間だった。」そこに立つと、ほんの一瞬、 21歳の現役に戻ったような気がしました。  そんなことで私のサッカーの旅もそろそろ終わりに近づいたかなと思っています。  FIFAのオリンピック・トーナメントの組織委員ですから、2年後の北京オリンピックは私が担当しますが、たぶん、それが最後になるのではないかなと思います。  サッカーという、私にとっては素晴らしいスポーツに出会えたこと、またIOC委員という立場で、世界中のいろいろな競技の皆さんとお会いでき、いろいろな競技を知ることができました。サッカー-を始め、スポーツの中で生きた60年は私にとって本当に楽しい60年だったという想いで一杯でございます。

 今、Jリーグも延長戦をやらないで終わることになっていますので、延長戦無しで勝手に私の60年間の思い出を語らせていただきました。貴重な皆さんのお時間をいただいて、聞いていただく内容があったかどうか内心忸怩たる思いがいたしますが、最後まで熱心にお聞き取りくださり、お礼を申し上げて話を終わらせていただきます。どうもありがとうございます。